長文な呟き

呟きたいけど、Twitterじゃ文字数が足りないようなことを呟きたい。

反論と偏見 -価値ある価値観とは何か-

よくTwitterなどでも起こる論争や、反論の類には質の悪いものがいくつか見受けられる。自分はその質の悪い反論には、共通の要素として『一般論』というものが含まれていると思う。今回はそれを『偏見』というキーワードで考えてみた。

もしこれを読んで共感、疑問、反感を持ったらためらわずにコメントして欲しい。自分もまだ今回のテーマについては模索中なので是非参考にしたい。

 

さて、偏見とは、なんだろうか。

自分は、

偏見には2種類あり、

 一つは『食わず嫌い』のことで、もう一つは『完成』だと思う。

 

前者の偏見は、言葉の通り、物事について知ろうとする意思もなくその物事を評価することである。

 自分の例でいうと、中学生時代に、たいして聞いてもいないボーカロイドを低俗な文化だと卑下していたことが挙げられる。その後、自分がボーカロイドの『シャルル』

youtu.be

という曲を聴く機会があったのだが、それを境に自分のボーカロイドへの認識は180度変化した。歌手がロボットであること以外、他の曲とその価値は何も変わらないのだということに気が付いたのだ。(もちろんボカロ特有の曲で苦手意識を持たれやすい曲もあるが、それだけでボカロ全体を評価するのは単一的だと思う。)

 こちらの偏見は、一般論を含むと思う。あれはああいうものという世間や周りの環境が作り上げた(これを文化形成と呼ぶのだろうか)一般論に基づいて物事を考えることは偏見の要素が強く、例えば反論の際に用いると支持は得やすいかもしれないが、自分は全く無価値で無責任な感覚だと思う。

 

もう一方、『完成』という偏見はまさに『シャルル』に出会った後の自分である。

 物事を知った、経験した上での自分の価値観、評価基準というのは『完成』した自分の価値観だ。これはネガティブな意味に聞こえないかもしれないが、この偏見もまた偏見というように、単一的な価値観を持ってしまうことに他ならないことは言っておきたい。例えば自分の好きなものを無条件に肯定したくなるなどといった弊害が考えられる。やはり、他の考え方や価値観を受け入れる姿勢でいないと(それが自分の価値観を否定するものでも)、一つの偏見をずっと持ち続けることになり成長がない。

 ただし、『完成』型の偏見による思考は自分の真の意見に近く、吟味されているため、それを主張することには責任が伴うとともに、価値があるのだと思う。

 

 ここまで読むと気づいたかもしれないが、自分は、この世のどんな価値観も偏見にすぎないと思っている。ただ、その偏見が『完成』型のものであるなら、それを主張したり、それに基づいて反論したりすることが許されるのだと思う。まとめると、

 

どんな価値観も偏見にすぎないのだから、自分で一から吟味した感覚でモノを考え、主張するべき。

 自分が伝えたかったのはこの一文に尽きる。これからもこのことについては考えるだろうが、現時点の自分の見解を述べさせてもらった。あと、自分の偏見を取り除いてくれた「シャルル」には本当に感謝している。

 

 ちなみにWikipediaによると、

 

偏見(へんけん、英語: prejudice)とは、偏った見方のことである。差別と密接な関係を持つ。

ゴードン・オルポートは「偏見とは十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」と定義する。ここで言う他人を悪く考えることとは、「好意を持たない感情、恐怖感、嫌悪感と共に他人の差別、誹謗中傷、暴力等の反感を持った行為」である。

上記の定義はあくまで否定的偏見(ネガティブ偏見)である。十分な根拠もなしに他人をよく考えることもありうる(好意的偏見)。それを考慮にいれれば「偏見とは、十分な根拠もなしに他人を好きとか嫌いとかと判断する感情である」と定義されるべきとの主張もある。しかし、偏見の大部分は否定的偏見が占めている。

*1

 

十分な根拠もなしに」はもちろん「完成」型偏見にも当てはまる。その理由はソクラテスの「無知の知」を想像してもらえればわかると思う。